三重県の北西部に位置する伊賀市と名張市を拠点としていた「伊賀流忍者」
周囲を山に囲まれ、古くから交通の要所にあったことが忍者の発展に繋がった。
伊賀流忍者の起源は服部氏族であり、起源は鎌倉時代にまで遡る。戦乱が頻繁に起こっていた当時の日本において、伊賀の民衆たちが自衛のために技を磨いていたことが始まりとされる。
戦国時代には服部半蔵の父・保長が松平家康(後の徳川家康)の家臣となり、主に徳川家に仕えるようになった。
伊賀忍者は共同体によって組織の運営を行なっており、その意思決定は「上忍三家」と呼ばれる3つの有力者の意向が大きかった。
服部半蔵を輩出した服部家、織田信長に抵抗したことで知られる百地三太夫を輩出した百地家、武田信玄の軍師であった山本勘助に忍術を教えたとされる藤林長門守を排出した藤林家の3家から成っていた。
伊賀流忍者は、忍術や戦闘能力が秀でているのが特徴であり、その能力を生かし数々の戦に貢献していた。
また雇い主とは金銭での契約を交わし、それ以上の関係を持たなかったのも特徴である。依頼が有れば複数の大名に忍びの者を派遣していた。戦が起こり双方から要請があった場合はそれぞれの依頼に応えていた。つまり同じ伊賀忍者同士で戦う場合もあった。
彼らの依頼主との関係は、今のビジネスに似ている。
伊賀忍者は催眠術や手品を含む呪術を得意としていた。両手で印を結ぶ「九字護身法」や、印を結び呪文を唱える「印明護身法」と呼ばれる技を使った。
また、火薬の材料を入手しやすく火薬の調合に精通していたことから、火伿の術も得意としていた。
一般的に「忍者」といわれてイメージするのは伊賀忍者に最も近いのではないだろうか。
甲賀流忍者
甲賀流忍者は滋賀県甲賀市に根付いた流派の忍者である。
日本最古の忍者である大判細人をはじめとする大判氏族が起源。甲賀流忍者は普段は農業や行商人として活動し、指令があるとその場所へいって活動していた。
甲賀流忍者は依頼主を特定の家に絞っていた。その背景には、甲賀流忍者の起源が関係しているとみられる。
彼らはもともと守護大名の佐々木六角氏の地侍であったので、特定の大名とに主従関係をハッキリさせる面があったのだと思われる。伊賀流忍者が徳川家に仕えていたのに対し、甲賀流忍者は豊臣秀吉の指示により徳川家を監視する役目を担っていた。
仕える大名が没落すると仕える主をコロコロ替える一面もあった。手を組む大名を佐々木氏から織田氏、豊臣氏、徳川氏と次々と変えている。
一見して節操が無さそうに見えるが、彼らが仕えた大名をみると天下取りばかり。つまり、これは甲賀流忍者が時代を読む力があった証拠だといえる。
甲賀忍者は「惣」と呼ばれる共同体で、そこに参加する者の立場は対等なものだったと言われている、里として意思決定を行う際も多数決によって運営を行っていた。
今で言う民主主義に近い形である。
甲賀流忍者は医療や薬に精通していた忍びで毒薬を使って戦っていた。普段の生活では、お守りや薬を売り歩くことで諜報活動を行っていた。
伊賀忍者と甲賀忍者は江戸幕府との関係も異なっていた。
本能寺の変の勃発後、堺にいた徳川家康は伊賀出身の服部半蔵らに守られて三河国に戻った。その功績から伊賀忍者は江戸幕府の支配下に組み込まれ、島原の乱やペリー来航時には偵察を行うなど、幕府の任務をこなした。
一方甲賀忍者は秀吉に支えていたため伊賀忍者と戦うこともあった。しかし伊賀と甲賀は山を挟んで隣同士なため、イメージと違い普段は共存関係にあったようだ。どちらかが攻め込まれたらどちらかを助けるという協力関係にあったようである。
江戸時代になると生活が苦しくなったため、幕末に戊辰戦争が発生すると新政府軍に加わり、庄内藩との戦いで戦果をあげた。
伊賀忍者と甲賀忍者の忍びの里は山を挟んで隣町にあり非常に近い。だがその特徴は大きく異なっていたことがわかる。
甲賀 ケムマキ、猿飛佐助
人当たりがよくて話し上手、聞き出し上手な人が多かったって話も
500年ぶりか!?
バカを休み休み言えと言いたいが モノホンの馬鹿だからな(笑)
白山神社の話かな
白山信仰を広めたのは弾ではなく実は非人だという
朝鮮人の言う事は支離滅裂だから解らないよ(笑)
侍とか忍者は韓国が起源なんだけど、日本人は認められないからw
徳川は北朝鮮ってのは。
服部は士族で非人の忍者(鉄砲隊)引き連れてると思ったら
忍者は服部の血族か
半蔵だけ士族に引き上げられたって考えるべきかな
韓国ですから